50代で「終活」を考える理由
50代の終活
私の父は92歳で亡くなった。
まもなく父の3回忌。
コロナが流行っている今。
家族でも密は避ける悲しい世の中。
実家に行く時は、家族単位。
時間差で。
目次
太平洋戦争の時、旧制中学の学生だった
太平洋戦争が勃発した時、父は、旧制中学の学生だった。
旦那の話では、
「旧制中学は現在の高校程度と勘違いする向きもあるが、実際には、スーパーエリート」だったという。
当時、旧制中学への進学率は8~9%。
卒業後、旧帝大や上級学校へ進学する学生が通うための学校。
太平洋戦争当時、大人たちは戦場へ送られ、労働力が不足した。
日本国政府は、特別措置で旧制中学卒業を5年から4年に短縮し、
軍需工場へ勤労学徒として動員した。
いわゆる「国家総動員法」。
青春も進学も夢も、全て失くした。
父は、軍需工場の勤労学徒として敗戦を迎えた。
混沌とした暗闇の中で、父は銀行員になった。
55歳、支店長で定年
定年後は、マイホームでのんびり過ごす。
庭には母の好きな木々と草花。
そして父の小さな畑があった。
『財産はないけど借金もないのよ』
母は笑った。
幸せな老夫婦であった。
ところが・・・
母が言った。
お父さんと『老後の話』はしてない!
そして娘の私も両親の老後を想像してなかった!!
「老老介護」の真実
父は、90歳過ぎると介護が必要になって来た。
食事・排せつ・入浴など、人の手が必要になった。
しかし、そのお世話をするのは、同じく高齢の母。
いわゆる老老介護。
年老いた母は自分の事で精一杯。
だけど性格上、弱音を吐かない。
ある日、実家に行くと家の中がトイレの匂いがした。
次に行った時は、公園の公衆トイレの匂いがした。
毎日の父の世話は、ギブアップ寸前。
母は言った。
『食べるとね、出るのよ。』
『たくさん食べるとね、たくさん出るのよ。』
洗濯物が増え、掃除が増える。
日々の主婦の仕事もある。
核家族社会の高齢者世帯
ようやく、息子も娘も気づいた。
老老介護の壮絶な現状。
そして、私たちは無い知恵を絞った。
経験したことのない未知の世界。
さあ、大変。
なにから始めよう。
「早くしないと母が先に倒れてしまう。」
地域包括センターのケアマネジャーが色々と教えてくれた。
①母の負担を減らす。
②父が通うデイサービスを探がす。
③デイサービスを利用する為、役所の手続きをする。
④お金も必要である。
父はデイサービスの送迎が好きだった。
若い時から、車の運転が好きだった。
送迎車で、お気に入りの席に座った。
ひと時のドライブを楽しんだ。
ところが、宿泊が伴うと話は違う。
『なぜ家があるのに、ここにいる?帰りたい。帰る!』
父の言葉が心に残る。
説明しても、理解できないらしい。
『意味が分からない』と父は言う。
そうだよね。理解できないよね。
「ごめんね」娘の言葉。
88歳の終活
現在母は、88歳。
父から学んだことを実践。
母に今後の意思の確認を済ませた。
①自分で動ける間は、自宅で過ごす。
②生活に介助が必要になり、排せつがわからなくなったら施設に移りたい。
嫁や息子、娘にさせたくない。
③延命はしない。
④手術はしない。
⑤痛みがあれば薬を処方してほしい。
⑥全ての決定権は長男に任せる。
母の希望だった。
50代で終活を考える理由
さあ、30年後、私はどうするの?
今から考える。夫婦で話し合う。
夫婦で老後を迎えた場合。
ひとりで老後を迎えた場合。
病気になるかもしれない。
ボケてしまうかもしれない。
その時は
周りに迷惑をかけずに過ごしたい。
では、どうするべきか。
『なんと めでたい ご臨終』
この本を読んでみた。
理想の最後が描かれていた。
母にも読んでもらった。
専業主婦